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小説で読むおもしろい判例  2008年6月17日 更新

奇妙な依頼 ― 殺人罪と嘱託殺人罪 第一回

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「小説で読む面白い判例」連載開始にあたって

今回から「小説で面白い読む判例」を連載します。
このシリーズの狙いは二つあります。一つは、小説という身近な形式を通して、普段馴染みのうすい裁判官裁判所の考え方や論理を知っていただきたいということです。
もう一つは、間もなく始まる裁判員制度との関係です。
裁判員制度では、私たち一般市民は、刑事事件における具体的事実を評価して、検察官・弁護人の主張のいずれが正しいか判断することが求められます。しかし、普通の生活ではこのような判断を強いられることはありません。そこで、小説を通じて判例に親しむことで、特殊な判断を下すことに多少なりとも慣れていただけるのではないか、と考えたのです。
 このような観点から、検察官・弁護人の主張や裁判官・裁判所の判断はできるかぎり現実の判例に基づいていますが、事件の詳細や登場人物の言動は、興味をもって読んでいただくため、フィクションにしてあります

 この点を御了解のうえ、「小説より奇なる」判例の世界に親しんでいただきたいと思います。


奇妙な依頼 ― 殺人罪と嘱託殺人罪  第一回

神村 春生

 皆さんは、外形的には犯罪に当たる行為が、被害者の依頼や承諾によって犯罪でなくなったり、あるいは刑が軽くなったりすることをご存知だろうか。
 例えば、医師が手術する行為は、外形的には、傷害罪が罪としている行為に当たる。メスで皮膚を切るという行為は、傷害罪刑法204条・15年以下の懲役又50万円以下の罰金)の実行行為そのものだ。しかし、相手、すなわち患者の承諾があれば、傷害行為は医療行為となり、犯罪として処罰されることはなくなる。
 男がある男に、「自分を殺してくれ」と頼まれた。このとき、相手が真摯に依頼したのであれば、男の罪は嘱託殺人罪(人を、その者に頼まれて殺すこと。刑法202条後段)となり、6月以上7年以下の懲役又は禁錮の範囲でしか罰せられない。
 しかし、もし裁判で、「相手の依頼は存在しなかった」と認定されたらどうか。
男は殺人犯人として、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役という、嘱託殺人罪とは比較にならない重い刑事責任を負うことになる。
 この話は、嘱託殺人か殺人かが争われた事件である。


関東地方がまもなく梅雨入りするという6月の午後、山岸四郎は渋谷駅に降り立った。
階段を降りる背中を、同乗の客が次々と追い越していく。
― 数駅電車に乗っただけなのに、もう疲れている。
こんなことで、満足に相手が務まるのだろうか。Kの不機嫌な顔を思い出し、四郎は暗い気持ちになった。待ち合わせの1時まで、あと30分もない。Kはいつものホテルで、もうシャワーさえ浴びているかもしれない。
だが、今日こそ、一日延ばしにしていたことをはっきり言わなくてはならない。関係を終わりにしたい。もう会いたくない、と。
しかし、それまでは相手の機嫌を取り結んでおかなければならない。別れるつもりの相手と気を合わせるのがこんなに苦痛だとは、思ってもみなかった。
四郎は無意識に、上着の胸辺りを押さえた。内ポケットには3日前にホテルで渡されたソムリエナイフが入っている。その種のものとしては大ぶりで、刃渡り10センチほどの別刃が付いている。イタリアの職人に作らせた特注品ということだった。
「ウォッシュタイプのチーズが、手を汚さずに削ぎ切りできるよ」と、Kは別刃を繰り出して、自慢げに説明したものだ。
このナイフを―本来の用法どおりに使うなら―何の問題もない。しかし、それに続いたKの言葉は、四郎を戦慄させた。

「これで下腹を刺してくれないかな。」
― え?・・・
思わず相手の顔を見返した。
― 何だって? 冗談だろ?
「下腹を刺すんだよ。― 方法は決めてあるんだ。ちゃんと説明するから」
― ちょっと待ってくれよ。それって、殺人じゃないか。
「礼はする。500万出すよ。500万ならいいだろう」

500万円は大金だが、Kにとっては何ということもない金だ。しかし、嘱託殺人に500万円出すと言ったことで、四郎は相手が本気であることを悟った。
精巧なソムリエナイフは、今や凶器の禍々しさを放っている。内ポケットに入れているのに耐えられず、四郎は足を止め、セカンドバッグに移しかえた。このバッグも、Kから贈られたものだ。
― どうしてこんなことになったんだろう。
道玄坂小路方向に歩みながら、嗚咽が込み上げてきた。
小雨が降りはじめていた。

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