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無罪推定―3通の起訴状 第一回

第1回 早朝の事件 

 平成元年1月27日午前7時ころ、K市H区・・町に住む老夫婦が、A女子大学付近の坂(通称「女坂」おんなざか)上に広がる雑木林を散策していた。
  この雑木林では、秋はキノコ類、早春には野草が豊富に採取できる。二人はフキノトウを探して、散歩がてら早朝の散歩に出たのであった。
  一昨日から降り続いた雨は明け方には上がっていたが、女坂も雑木林もまだ濡れそぼっていた。
  女坂は、K市H区東山七条の北寄り交差点から東へ入る、緩やかな坂道である。付近に女子大やその高中等部・保育園などが点在するところからこの名がついた。
  朝夕の通学時間帯には若い女性たちが行きかい、女坂の名に似つかわしい華やかな雰囲気になる。また、近所には高名な寺社仏閣や人気の高いレストランなどがあり、シーズンには多くの観光客で賑わう。しかし、坂を上がりきると鄙びた社寺があるばかりで、日が暮れると人通りもほとんどない。
  老夫婦が散策した雑木林は社寺を包むように広がり、それが尽きた奥には小さな崖がある。崖を降りると、隣町O市へ抜ける旧街道に出られる。しかし、崖は急な斜面を有し、雑木林から崖に至る小道も、たやすく通行できるようにはなっていない。雑草は生い茂るままに放置され、間伐材なども捨てられていた。

 老夫婦すでに1時間以上も歩いていた。だが、フキノトウは1株も見つけることができなかった。

「昨日の雨で冷えとるからかな。ひとつも見つからんなぁ」

「お父さん、崖の手前に空き地があるやろ。あそこは日当たりがエエから、顔を出しとるかもしれへんよ」

 夫婦は七十半ばを越しており、最近とみに脚力の衰えを感じていた。崖上まで行くのは躊躇われたが、このまま手ぶらで帰るのも残念だった。そこで、二人はさらに足を伸ばすことに決め、崖まで上がって行った。ようやく弱い冬日がさし始めていた。

「ここにもあらへんなぁ」

「崖の面はどやろ」

「危ないで、止めときぃな」

「ちょっと見るだけやし。悔しいやんか」

 二人はどちらともなく崖の上に出て、草で覆われた斜面を覗き込んだ。斜面は鋭角にそそり立ち、西端には伐採された木が無造作に積み上げられている。
老いた夫は、キノコ探しの習慣から、うず高く積み上げられた伐木に目をやった。

「あれ?・・おい、ありゃ何や?」

伐木の下から、蝋色をした何かが出張っている。

「あ、ヒ・・・人の手やァ・・・」

 二人は転がるように女坂を降り、夢中で派出所に駆け込んだ。
  H署の捜査員が現場を調べたところ、老人が見たのは死後2~3日経過したと思われる死体の右腕部分であり、伐木の下からの2体、計3体の死体が発見されたのである。1体はすでに白骨化していた。
  H署には急遽特別捜査本部が設置された。

 被害者は、着用していた衣服やDNA鑑定等により、竹下みち江(失踪当時48歳・旅館従業員)、藤沢加奈子(同50歳・主婦)、山本弘子(同37歳・和装関係会社アルバイト)であることが判明した。3人の家族からは、それぞれ捜索願が出されていた(順に、昭和62年7月8日(水)、昭和63年12月7日(水)、平成元年1月25日(水)に失踪)。
  現場の様子から、事件性があることは間違いなかった。死体は折り重なるように捨てられており、おそらく同じ人物または関係者が遺棄したものと思われた。また、地元の者でなければ立ち入らない場所であるところから、犯人はK市の居住者であるか、過去に一定期間居住したことがある者と思われた。
  捜査官らは女坂付近の商店・住宅を中心に、女連れの挙動不審者・自動車に係る情報を集め始めた。しかし、付近は日常的に女性の行き来が頻繁で、観光客が乗り入れる車も多い土地柄であり、住民は女連れの者に気を留めないことがわかっただけだった。

 被害者が失踪した日がいずれも水曜日だったこと、また、被害者らが熟年の女性だったことから、マスコミは「女坂殺人事件」「水曜日殺人事件」などと書き立て、連日報道を続けた。被害者の家族は有益情報の提供とプライバシーの尊重を訴えた。
  しかし、有力な情報を得られないまま、事件から1年が過ぎた。マスコミ報道は、捜査当局の無能を書き立てる記事に変わっていった。世間の耳目を集めた事件であるだけに、手がかりも得られないとなると当局の面目は丸つぶれというわけだった。
  本庁の捜査1課長が視察に訪れ、捜査現場はさらに焦った。容疑者の一人も挙げられないのである。捜査官は総出で聞き込みにあたったが、無為に日が過ぎた。
  そして、マスコミの報道さえ間遠くなったある日、捜査本部は解散された。
「痛恨の極み。しかし、継続して鋭意捜査する」とのH区警察署長の挨拶を残して、事件は忘れられた。

 14年後の平成14年6月7日、石井直也(39歳・事件当時26歳、工務店勤務)は覚せい剤取締法違反(所持)容疑で逮捕され、その直後から、3人の殺害に関して任意で事情聴取を受けるようになった。
  そして6月11日、山本弘子殺害容疑で再逮捕。さらに7月1日、竹下みち江殺害容疑で再逮捕。それは竹下みち江殺害事件の公訴時効が6日後に迫る日のことだった。
  続く7月9日、石井は藤沢加奈子殺害容疑でも逮捕された。

 石井の身柄は検察庁に送られ、さらに取調べを受けた後、K地方裁判所に起訴された。竹下みち江殺害の公訴時効が完成する6時間前のことであった。

(続く)

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