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何もしないことが殺人罪になる!? - 不作為の罪 第二回

第2回 山崎工務店

 被害者は、山崎 喜八(当時73歳)、職業 工務店経営。半年前、新興宗教「水光の会」に入信した者である。

 喜八は、昭和4年、・・県・・市に生まれた。生家は小作農で、戦後は土地を得た。しかし3男だった喜八に居る場所はなく、職を求めて家を出ることになった。そして、当時景気の良かった鍍金工場の工員となった。
 しかし、やがて喜八は、仕事場の劣悪さに怯えるようになった。鍍金職人は皆、塩酸や金属粉を吸って肺をやられていた。重症の者は内臓が腐ったようになり、汚物を垂れ流して立つことすらできなくなる。だが、保障も何もあったものではなかった。働けなければ、次の日から職を失うのであった。
 高い工賃の取れる鍍金職人となるのが目標だったが、一生続けられる仕事とはとても思えなくなった。後に、喜八が健康に人一倍神経質になったのは、鍍金工員時代の経験があるからかもしれない。
 喜八は、いつか独立することを夢見るようになり、30才の頃、廃屋のようなボロ家を借りて、ようやく工務店の看板を揚げた。

 工務店の経営は順調に伸びて、喜八は店舗を拡張し、職人も増やしていった。それはちょうど、インフラ整備によって発展した日本経済そのままの発展ぶりであった。しかし、平成に入り、地方自治体が逼迫し予算が引き締められるようになると、受注工事が減少し、経営は行き詰まってきた。
 地方で信用を得るため、役所の仕事を最優先にしてきたので、民間の取引先は数えるほどしかないのである。喜八は偏った経営を反省し、痛む腰を伸ばして、自ら営業に出るようになった。しかし、役所の鷹揚さに比べ、民間企業の厳しさは想像をはるかに上回った。喜八の見積もりは、足元を見た相手経営者に散々に叩かれた。  喜八は高い工賃を取る熟練の職人を辞めさせ、代わりに若い工員を雇った。仕事の質は落ちたが、止むを得なかった。次に、現場に立つ警備員を減らした。
 経費を切り詰めて、当座をしのぐつもりだった。

 ところが、警備員を減らした現場で事故が起きた。
 それは小学校の塀の改修工事で、昭和の中ごろ造られた古いブロック塀を、災害に備えて補強するというものだった。現場は一部が狭い通行路になっており、接する公道との間には、腰の高さほどの仕切りが並べてある

 本来は、その通行路の両端に警備員を立たせ、人や自転車の侵入を2ヶ所で制限するはずだった。しかし、警備員を一人しか配置しなかったため、通行路の両方から自転車が入り込んで接触した。自転車の一台が公道側に転倒し、乗っていた小学生は舗装道路に放り出された。
 この事故は、小学生が自動車に巻き込まれて失明する惨事となった。
 地元新聞は、事故の原因は「営利の追求のために安全さえ軽視する経営姿勢」にあるとして、声高に糾弾を開始した。新聞社の役員には有力工務店の親族がおり、公平な報道といえたかどうかは疑わしかった。しかし、地域に根ざした喜八の経営は、壊滅的な損害を受けた。

 痛ましい事故を起こした工務店を相手にする役所は、もうどこにもなくなった。

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