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キズで毛羽立った古いソファに腰を下ろした 第五回

第5回

 私はすがる思いで、残った一人の住所を探した。懐かしい屋号が目に飛び込んできた。「中村不動産株式会社」―昔は「有限会社 中村商店」だったが、間違いない。会社法上、有限会社がなくなったので、株式会社に変えたのだろう。これなら商売もやっている見込みがありそうだ。思わず胸が躍った。

 中村社長は大阪出身の在日二世で、根っからの苦労人であった。「特注クラブ」の常連であった。商売はしたたかだったが、人懐こい面を持った人で、奢っても何の得にもならない私を誘い、何度か酒を飲みに連れて出してくれたことがある。
  聞いたところでは、社長の実母は日本人だったらしい。美しい人だったという。社長の父とは、親類一同の大反対を押し切って結婚したそうだ。ところが、何の事情があったのか、社長の父はその人を追い出し、韓国人の女中を後妻にした。正妻になおった女中は、少年だった社長に食べ物さえ与えなくなり、自分の連れ子ばかりを可愛がるようになった。戦前のことで、追い出された母は実家にも帰れず、思い余って自殺してしまった。社長は悲しみ、父を叩きのめした末、大阪の家を飛び出した。無銭乗車で東京までたどり着き、上野のはずれにあった養豚場に拾われた。まさに無一文からの出発であったという。

 私はその話を信じた。「もう一度始めからお願いします」と、社長に頼んだことさえある。その話は、何の希望もない一工員だった私を励ました。

「あんたもオモロイ男やねぇ」

 朝鮮料理屋のマッコリで赤くなった顔をほころばせ、中村社長は言うのだった。

「チョウセンや、言うて、日本人は誰でも軽蔑しよるのになぁ」

「そんなこと、関係ありません」

私はむきになって頭を振った。

「しかし、お蔭さんで、私は大阪に帰れんようになってしもた。親に手を上げるてなこと、私らの間では絶対許されんことやさかいな」

「そうですか」

「親だけは大事にせなあかん、どんな親でも、親は親やからな」

 私は素直にうなずくことができなかった― あの親父に、何の有難みも感じられなかったからである。しかし、社長の話が聞きたくて、私は言葉を飲み込んだ。

「さっきの話、もう一回して下さいよ」

「ホンマ、お前はオモロイ男やなぁ」

 社長は心から面白そうに笑った。
  その風景が、昨日のことのように目に浮かぶ。古い朝鮮料理屋、漂うキムチの香り、香ばしく肉が焼ける音、卓に伏してマッコリの器を傾ける朝鮮人労働者たちの影・・・社長も覚えていてくれるだろうか?

 社長の不動産会社はすぐに見つかった。表面は打ちっぱなしで、今風の貸しビルになっていた。中村不動産は1階に店を構えていた。
  まだ早い時間だが、もし社長が健在なら、絶対に出社しているという確信があった。社長はいつも、朝が遅い今時の若者を情けないと言っていたからだ。

「私が若いときにはねぇ、朝暗いうちから起きて、店を掃除したもんや。旦那さんが起きてくる頃には、店の前から何から、きれーいになっとったモンや」

 それを聞いて以来、私は工場の寮で一番の早起きになった。誰が褒めてくれるわけでもなかったが、1時間早く工場に出て、そこらを掃除した・・・。

 あの懐かしい社長は元気だろうか。心配なのは、すでに社長が他界されていることであった。しかし、杞憂はすぐに晴れた。店の前でタバコを吸う老人が目に入った。

「中村社長ですか」

 社長は一時不思議そうな顔をしたが、すぐに私に気がついた。
  社長は変わらなかった。無論年老いてはいるが、小柄だが頑強な体つき、眼光の鋭さは、少しも衰えていないように見えた。

「おお、安藤君やないか」

「お久しぶりです。お変わりありませんね」

「何冗談言うとんねん、もう歳やがな。・・・君も元気なんか」

「はぁ、・・・まあまあやっております」

 社長は私の風体に目をやり、少し気の毒そうな顔つきになった。

「聞いとったで。君の店、大変やったそうやな・・・。
  しかしまぁ、命あってのモノダネや。生きとったら、それでええがな。生まれたときは誰かて無一文や、そやろ」

「あの、― 社長、実は、今日は折り入ってお話がありまして」

社長は心得た顔になって言った。

「そうか、立ち話も何や。まぁお入り」

 私は社内に通された。社内は整理整頓され、パソコンも数台置かれている。そっと事務椅子を数えたが、10人ほどが座れるオフィスであった。社長の机は社内の一番奥に据えられていた。横には新しい金庫もある。
  なかなか景気が良さそうだ・・・これならいけるかもしれない。
  以前そうしたように、私は社長の事務机の前に座った。そして、今まで何度も考えてきた、新しい企画について説明した。それを実現するには社長の援助協力が必要であることも・・・説明には1時間ばかりもかかった。
  社長は黙っていたが、時おり頷きながら聞いていた。―これならいける!

「安藤君、話はよう分かった。まず、最初に結論や。金を貸すのも、保証人になるんも出来ん」

社長の言葉は思いがけないものだった。

「な、・・・何でですか?どうしてですか?」

「安藤君、君は一度、裸になった身やろ。そやのに、まだ、人の力借りてエエ目しようとしとるな。再起を期すなと言うとるんやないで。そこんとこ、間違えなや。
やるんやったら、自分だけの力でやれ」

「・・・」

「ワシの話をしたやろ。養豚場の小僧から這い上がった。いまだに、中村は豚のエサ食うて成り上がったて、言われとるわ。
しかし、ワシは構わん。なぁ、裸一貫から成り上がってこそ男や。20何年前のツテしか頼れんて、恥ずかしいないんか。
ワシは、お前さんのこと、見所のある男やと思うとった。そやから、開業資金を世話したった。あの気甲斐性はどこいったんや。ホームレスになると、そこまで落ちぶれるもんか」

私の手は震えた。

「社長、それは何でも言いすぎと違いますか」

「言い過ぎやと思うんやったら、おのれ一人でやってみぃ。大体なぁ、家も家族もない男に、このワシが金出すと思うたんか。大甘や。そんなんで商売ができると思うてるんか。また潰すのが関の山やで」

「社長、お言葉ですが、・・・今言われたこと、引っ込めて下さい。今日は、・・・今日は私も腹括って来てるんです」私は思わず、上着の内ポケットに手を当て、立ち上がっていた。

「脅すんか。この中村を脅す根性があるとは驚きや。その根性で、ゴミでも拾うたらどうや」

「社長!」

 言うべきことは全て言ったというふうに、社長は背を向けた。

「お帰り、もうすぐ社員が出てきよる。お前もこれ以上、人前で恥かかんとけや」

 私は夢中で内ポケットから髭剃りを掴み出した。
  社長が頼みを聞いてくれたらこんなことはする必要もなかった。だが、今となっては仕方がない―。

「社長、すいません」

次の瞬間、振り向いた中村芳次郎の首筋を、安藤の剃刀が無様に切り裂いていた。

(続く)

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